ドキュメンタリーDVD『高野山開創千二百年 いのちを紡ぐ』PV

Поделиться
HTML-код
  • Опубликовано: 9 окт 2024

Комментарии • 11

  • @吉田俊子-p7q
    @吉田俊子-p7q 3 месяца назад

    おはようございますいい話しがきけてよかったですよ

  • @路人-z1f
    @路人-z1f 7 лет назад +1

    頂禮膜拜真言宗歷代祖師

    • @forest5453
      @forest5453 4 года назад

      阿白 殿
      真摯同意、禮拝閣下師、柔和慈悲溢、如空海。

  • @路人-z1f
    @路人-z1f 7 лет назад +4

    南無大師遍照金剛

    • @forest5453
      @forest5453 4 года назад

      阿白
      南無大師遍照金剛、破邪如稲光。
      一条裂光、暗雲切裂。

  • @足立パクパク
    @足立パクパク 6 лет назад

    高野山だけでなく、永平寺なんかは昭和40年代半ばから荒れて、アヘン栽培してるとか修行僧が逮捕されるニュースが相次いでいたけれど、いまふりかえると、、、人事更迭の冤罪逮捕だったのではないだろうか。その頃から、毎年、祖母の紀ノ川にある実家とかつらぎ町の身内、天川村のあと、行ってたのが行かなくなった。911テロのあと、永平寺は特に懐かしくて、もう一度行ったら、かつて奥山までお大きな御神木がずっと並んでた道が無くなっていて、代わりに、コンクリートの建物が建っていた。
    多分、のっとられてしまったのだろう。。 大阪市内の中小地域医療機関で健全な医療機関はとても多かったけれど、平成になって阪神大震災以降、次々と、不正請求を理由に閉鎖されていった。
    今振り返ると、、介護資本が医療業界と連携しやすくする過程だったとも思える。
    高野山にも平成になって家族で行くと、まるで外国のようなしかも殺伐と荒れていて、中国か台湾か東南アジアの色使いがきになって、もう2度と来たくないと思っていたが、あるお菓子屋さんが毎週、歩きに行くのよ、と聞いて、2015頃に娘と孫とで日帰りしたら、日本の面影が戻っていて、涙が出そうに嬉しかった。曽祖父母の頃、高野山まで屋敷の道があって、でも、お墓は自分の敷地内で、法事は、親戚の人が大学からの帰省で一緒になったご住職にのぞまれて後を継いだおじさんにしてもらったりしていたのに、、明治維新で県令だった祖父が屋敷内に小学校をもうけ、そこで祖母は算術と絵を教えていたそうだ。でも、母が言うところでは、算術の教え方は上手くなかったという。説明に対しては口数が少なく、言葉足らずだったようで、でも、筆まめで偽善を嫌う清しい人だったようで、母が祖母に連れられ帰省すると、皆が小愛の子と声をかけてもらったという。。平成になって、数十年ぶりにあまりにも不思議な事が起こる、、例えば、私が中学時代に父の診療所に戦後の市会議長さんの義理の孫さんを選挙応援するからと突如、現れた人が、平成になると、私が一才の時から家を建てるのに来ていたと平気で言い出す。? でも、、最初の家を建ててくれた大工さんは祖父の所から来てもらっていて、その後も修理のたびに見ていて、母が新田さんと呼んで、彼はとうちゃんと呼んでたから、違うし、第一、とても綺麗な居ずまいとキビキビした動作が好きで、私や弟の潜在意識での憧れにもなったのを思います。鉄平石で壁をはって、こまめに窓や戸口をつけてくれ、今振り返っても小さいけれど、楽しい家だった。仕事中、何度か、道具箱から離れた隙に、ノコギリを使わせて貰おうとして、さっと戻られて、おじちゃん、させて、と言っても聞こえないフリしてたので、だから最後にうさぎをくれ、私は保育所に行く前に餌をあげるのが日課になった。カンナもすごくて、お風呂の蓋は新しい時、二つが引っ付いたままで、母が左甚五郎の話をしてくれた。話し言葉は殆ど、記憶にないけれど、というか口数が少なく、私には理解もできなかって、ただ、母をとおちゃんと呼んでるのが不思議で覚えてる。
    この時期、母や父にも、まるで昔の知り合い、友人だと言ったり、甥っ子だとか言って、訪ねてくる人が結構、あった。それが平成、阪神大震災以降。。彼らはテレビタレントのように目鼻立ちがはっきりしていたり、モデルのように欠点のない美貌と容姿をしていて、色々、難題を持ち込んだ。そこで謄本を司法書士通じて撮ってもらったのが2010・2011・・すると、、3人兄弟のはずの祖父が7人兄弟になっていて、姉妹も増えている。その後、往年の祖父そっくりのでも別人格の方お二人にお会いし、祖母の姉でS30代に死に、残されたおじさんと祖母の次姉は東京の母の従兄弟の所へ引っ越し、そこで祖母の姉は施設に入所したと母の従兄弟で当時、第一勧銀支店長で多忙でしたが、手紙や電話のやりとりがあった。かつての部下を訪問させるからと手紙があった。
    どうも、、相談事みたいね、と祖父に見せていた。
    ともかく、戸籍のすり替えが、おそらく、学生運動がプロ軍人化した頃、おそらく、少しずつ、始まり、寺社も重文でありながら廃屋や住職がいないというのはs60代にはざらにあった。。何だかいく先々で、廃屋化して誰もいないのに、村は人が住んでるらしい道であったこと、竹之内峠も毎年、ハイキングや博物館の観察会などで歩くけど、今迄は住んでらした家に人の気配がしないのに、道は綺麗。。吉野山も川遊びしてても通る人が誰もいない。。吉野の家を気にかけてもらってる隣家だけで、その麓にある茅葺の風情ある手入れの行き届いた家に声をかけてもひっそり鎮まり返り、村の温泉に行っても閉まっていたりする。
    ただ、、、古座には昭和時期には柚子は名物ではなかった。目はり寿司の漬物、古座川の鮎、主婦の店、、祖父と泊まった老舗旅館は2012頃まではグーグルビューで確認できた。きっと、我が家の診療所と同じく、丁寧に解体し、どこかへ移設するのだろう。。柚子というと高知を思う。不思議に滋賀県にはなく、まったけの頃、お土産にするととても喜んでいただけた。

  • @路人-z1f
    @路人-z1f 7 лет назад +1

    全是日語聽不懂

    • @forest5453
      @forest5453 4 года назад

      放下所謂、不思議連。

  • @足立パクパク
    @足立パクパク 6 лет назад +1

    このアナウンサーの日本語、鼻にかかって嫌味な感じ。。
    画像は良いのに。。もっと、日本人っぽい物静かな話口だったらなあ。。